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最高裁判所第三小法廷 平成6年(オ)1130号 判決

上告人

岩手県

右代表者県立病院等事業管理者医療局長

吉田敏彦

右訴訟代理人弁護士

平沼高明

野村弘

堀井敬一

木ノ元直樹

加藤愼

被上告人

道原京子

道原成和

道原靖人

右両名法定代理人親権者

道原京子

被上告人

道原清

道原アイコ

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人平沼高明、同野村弘、同堀井敬一、同木ノ元直樹、同加藤愼の上告理由について

本件は、措置入院中の精神分裂病患者が作業療法の一環として実施された院外散歩中に無断離院をし、離院中に金員を強取する目的で通行人を殺害したことにつき、被害者の遺族が精神病院である北陽病院を設置、管理する上告人に対して国家賠償法一条一項に基づいて損害賠償を請求した事案であるところ、所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯することができる。そして、右認定の事実によれば、(一) Aは、昭和五一年ころから破瓜・緊張混合型の精神分裂病が進行し始め、社会的適応機能が著しく低下し、銃砲刀剣類所持等取締法違反、窃盗、公務執行妨害等の犯罪を繰り返して服役するに至り、昭和五八年一二月二九日、服役終了と同時に、岩手県知事によって、他害のおそれがあるとして、精神衛生法に基づき、北陽病院への入院の措置がとられた、(二) Aには、入院後開放的な作業療法実施中に病院内の自動車を盗んで無断離院をし、離院中に窃盗をしたり叔父に対して暴行を加えたりした前歴があり、その後も無断離院を口にするなどしていたため、北陽病院では同人に開放的な作業療法は実施していなかった、(三) Aは、病院内でも親族への恨みや加害の意思を公言してはばからなかっただけでなく、ささいなことから被害者意識を抱き、立腹しては他の患者の顔を殴るなどの問題行動を頻繁に起こしており、しかも第三者に対する加害行為につき心理的抵抗が少ない傾向にあった。(四) 担当医師は、無断離院などにより向精神薬の投与が中止されるとAの病状は悪化する可能性が大きいことを認識していた、(五) しかし、北陽病院の院長は、Aが前回無断離院した後も無断離院のおそれのある患者に院外散歩を含む作業療法を実施するについて特別の看護態勢を定めておらず、また、担当医師も、無断離院に関する要注意患者であるAを院外散歩に参加させるに当たり、引率する看護士らに対して何ら特別の指示を与えず、引率した看護士らも院外散歩中Aに対して格別な注意を払わなかった、(六) 本件殺人事件当時、Aは、精神分裂病の影響で、自己の行為の是非善悪を弁識し、これに従って行動する能力が著しく低下していた、というのである。

右のような事実関係の下においては、患者の治療、社会復帰が精神医療の第一義的目標であり、他害のおそれという漠然とした不安だけで患者の治療を拒否し、患者を社会復帰から遠ざけてはならないことなど所論指摘の点を考慮してもなお、北陽病院の院長、担当医師、看護士らには院外散歩中にAが無断離院をして他人に危害を及ぼすことを防止すべき注意義務を尽くさなかった過失の存することは到底否定し難いといわざるを得ず、また、右過失と本件殺人事件との間には相当因果関係があるというべきである。したがって、右と同旨の見解に立って本件につき上告人に損害賠償の義務があるとした原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法は認められない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に立って原判決を論難するものであって、採用することができない。

よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官大野正男 裁判官園部逸夫 裁判官可部恒雄 裁判官千種秀夫 裁判官尾崎行信)

上告代理人平沼高朋、同野村弘、同堀井敬一、同木ノ元直樹、同加藤愼の上告理由

第一 総論

一、本事件は、昭和六一年四月一九日に岩手県立の精神病院において院外散歩中に無断離院した措置入院精神分裂病患者が、四日後の四月二三日午前八時二〇分頃、横浜市内の路上で信号待ちをしていた被害者を強盗の目的で刺殺したものである。

すなわち、患者の社会復帰を目的とした療法の中で、他の二三名の入院患者とともに四名の看護者の引率に従い、不完全寛解状態の当該措置入院患者を、岩手県一戸町において病院外の散歩(院外散歩)に参加させていたところ、右患者が路上にたまたまエンジンキーを差したままの状態で駐車してあったライトバンに乗り込み、ライトバンを即座に発進させ、国鉄(現JR)の二戸駅まで巧みに運転して無断離院に成功し、さらに、国鉄(現JR)を巧みに無賃乗車して横浜まで移動し、無断離院から四日後に横浜市内で強盗殺人を敢行するという事故が発生したものである。

そして、本裁判は、最終的に発生した強盗殺人事件の被害者の遺族(妻子、両親)から、当該患者が無断離院した県立病院に管理上の過失があり、その県立病院を経営する事業者である岩手県に、死の結果に対する不法行為上の損害賠償責任があるとして、国家賠償法に基づく損害賠償請求を求めたものである。

二、本件強盗殺人は、精神分裂病患者が惹き起こした事件であり、入院治療途上において無断離院した結果であるところから、治療を担当していた医師が、本件結果を予見することが可能であったか否か、本件結果を回避することが可能であったか否か(具体的には医師の採用した院外散歩という治療法の選択、実施方法に結果回避義務の違反がなかったか否か)、医師の治療行為と本件結果との間に相当因果関係が存在したか否か、という点が問題となったが、これに対する法的判断がどのようなものになるかによって、今後の精神分裂病患者に対する精神医療の方向性に一定の基準を与えることになる事案であった。

三、本件は、発生した重大な結果からレトロスペクティブに条件関係を遡っていけば、そもそも精神分裂病患者を治療目的で院外に連れ出さなければ結果は発生しなかったという単純な思考が可能である。従って、第三者の死という重大な結果による多額の損害賠償責任を、病院側が未然に回避しようとするならば、治療目的上院外散歩等の精神療法が必要あるいは有用であるとの医学的判断が導かれる場合と言えども、そのような院外における療法の選択を断念あるいは躊躇せざるを得ないという状況が生まれやすい。

院外における療法を選択しない場合であっても、医師の判断からして、分裂病の妄想等の症状が強く、医学的にもそのような療法が、症状を増悪させる具体的可能性を有していると判断される場合であれば、患者の保護になり精神医療の目的と合致することになるので格別問題はない。しかしながら、前記のように高額の損害賠償を請求されるかもしれないとの一種の危惧感から医学上必要かつ有用な院外の療法が事実上抑制されることになると、以下のような問題を生ぜしめる。

第一に、院外における精神療法は精神分裂病患者の社会復帰を果たすために必要不可欠な療法であるところ、この療法になかなか踏み切れないがために、患者の寛解を遅延させ、あるいは逆に症状を増悪させ、治療という医療の目的が頓挫してしまう。

第二に、患者を必要以上に長期に精神病院内に収容する結果となり、患者の自由を不当に拘束し基本的人権の侵害を生む。

第三に、患者に対する過度の管理が強化され、不当に長期の施設内治療が実施される上に、病院内での患者の自主性も不当に軽視され、患者が完全に医療に隷属する関係となってしまう。

四、精神医療という分野は、医学の中でも比較的新しく、特に精神分裂病については、その病名自体、一九一一年に初めてドイツのブロイラーによって命名された新しい疾病であり、その診断基準、病理、治療法等については未だ八〇年余りの歴史しか有していない。

当初は精神分裂病の病理の解明が必ずしも十分ではなく、患者に対する過酷な治療法の試行錯誤の連続であり、患者がいわば人体実験の道具と化していたという歴史が存在し、また、精神分裂病の治療目的および精神分裂病患者を社会的にどのように捉えるかによって、閉鎖療法と開放療法の選択等、治療内容が大きく異なるため、精神分裂病患者が社会的に危険な存在であり、この危険な患者から社会を防衛しなければならないというような思想によって、精神医療が患者に対する社会的抑圧の目的に利用されたという不幸な時期も経験した。

これらの歴史を踏まえて、第二次世界大戦後の国際社会においては、精神病患者に対する治療の目的が、治安維持による社会防衛ではなく、患者の保護および社会への復帰にあるということが明確に位置づけられ、国連の非政府間国際機構である国連人権連盟や、国際保健専門職委員会(ICHP)、国際法律家委員会(ICJ)等の国際機関が中心となって、国際社会における精神病患者の人権抑圧の改善、精神保健サービスの改善・充実に尽力しているところである。さらに一九九一年の国連総会決議では、「精神病擁護及びメンタルヘルスケア改善のための原則」が採択され、本件措置入院のような非自発的入院は、「その精神病のために、自己または他人への即時のまたは差し迫った危害の大きな可能性のある」場合に限って許容されるとしており、強制入院治療の要件を厳格に解し、安易な精神病院への強制入院を許さないとの姿勢を鮮明に打ち出している。

一方、わが国の精神医療については、昭和四〇年以降、その悲惨な状態を告発する報告が登場するようになり、強制入院の手続の安易な発動、精神障害者でない者や自傷他害の危険のない者に対する強制入院の発動、強制入院下の患者に対する治療がないままでの拘禁の継続、入院患者に対する暴行脅迫等の人権侵害、作業療法という名の強制労働の実施、患者を被験者とする人体実験の実施等の、ショッキングな実情が公にされ、ようやく昭和四四年一二月に日本精神神経学会が「精神病院に多発する不祥事に関連し全会員に訴える」と題する声明を出し、精神科医師の姿勢を正し、明治・大正に遡る汚辱の歴史に終止符を打つことが表明された。そしてその後、精神医療の現場では患者に対する十分かつ適切な医療を与える努力が積み重ねられてきているのである。

しかしながら、わが国の精神病院における人権侵害の現状は一朝一夕のうちに完全には解消されず、このことが国際的関心事となり、昭和五九年八月に国際人権連盟は日本の精神医療を公に批判し、昭和六〇年には国際保健専門職委員会(ICHP)および国際法律家委員会(IJC)が日本に調査団を派遣したうえ、日本の精神医療の時代遅れを指摘するとともに、精神障害者の人権が保障されていないと批判し、精神保健サービスの改善等の勧告を日本に出している。すなわち、わが国の精神医療は世界的に見て、患者の自由、保護を守る側面において遅れているとの認識で一致しているのである。

五、本件のように精神医療の途上で発生した事故に対する医療側の責任をどのように判断するかという問題は、国際社会におけるわが国の精神医療をどのような位置に置くことになるかという問題と極めて強く結び付いているのである。

本件において医療側の責任の有無を判断する過程で検討されるべき具体的内容は以下のとおりである。

第一に、具体的に治療を担当していた医師が、当該患者を院外散歩に参加させたことの判断、そして具体的な院外散歩の実施方法の決定において、院外散歩中に患者が無断離院することの具体的予見可能性および回避可能性が存在し、医師としての注意を払ったならば無断離院を具体的に予見し、無断離院を具体的に回避することができたと法的に判断できなければ、無断離院の発生についての医師の注意義務違反は認められない。

第二に、無断離院したならば数日後に無断離院した場所から約五〇〇キロメートルも離れた地点で強盗殺人を犯すことの具体的予見可能性および回避可能性が存在し、医師としての注意を払ったならば強盗殺人を具体的に予見し、強盗殺人を具体的に回避することができたと法的に判断できなければ、当該患者を院外散歩に参加させた医学的判断、そして院外散歩の実施方法の決定において、強盗殺人発生に対する注意義務違反の存在は認められない。

第三に、右第二の判断と相当部分において重なり合う判断ではあるが、仮に医師の院外散歩の実施についての注意義務違反が認められたとしても、その後に発生した事実経過および最終結果に対して、注意義務違反時における具体的予見可能性が存在し、これまでの経験則や科学的予測の範囲を越えていないと法的に判断されなければ、注意義務違反と結果との間の因果関係は否定され、医師の結果に対する不法行為責任は認められない。

このような判断を経て、はじめて医師の医学的専門的判断による医療における裁量の違法を、不法行為責任という法的制度の中で問うことができるか否かが決定されるのである。

右法的判断はあくまで事実関係を分析して、事実に則って行われなければならないが、もし、裁判所が事実の認定および事実に対する法的評価を誤り、医師が具体的に予見できないことについてまで、予見が可能であったと公権的に判断してしまうならば、医師は、具体的治療行為の過程において、自らの医学的判断に疑心暗鬼となり、医師としては仮に重大な結果を全く予見できない場合や、また予見できても具体的にではなく危惧感の程度であるに過ぎない場合であっても、結果に対する責任追及を回避するために、いかに国際的批判の対象となろうとも、また、患者の社会復帰にいかにマイナスであろうとも、患者に対する管理を強化し、閉鎖的な病棟内治療を中心とし、開放療法を控え、精神病院に患者を拘束することが適当であるとの判断に傾かざるを得ない。

このような状況に、精神医療現場が置かれることになれば、わが国の精神医療は、患者の社会復帰という目的を大きく損ない、昭和四〇年代に既に解消されるべきことが宣言された、明治・大正の汚辱の時代に逆戻りし、さらに厳しい国際的批判に晒されることは必至である。

従って、本件において裁判所は、医師の結果に対する具体的予見可能性、回避可能性の有無、医療行為と結果との間の因果関係の有無等の判断について、充分に審議を尽くし、証拠を慎重に検討し、さらに経験則に照らして、適切妥当な結論を導かなければならない重大な責務を負っているのである。

六、原判決は、横浜地方裁判所の第一審判決をほぼそのまま踏襲し、上告人の不法行為責任を問い、被上告人の請求を大部分において認める判決をしたが、上告人において仔細にその判決の内容を検討した結果、それは、前記一、ないし五、についての理解が充分でないばかりか、何が真実であるかを見極める洞察力を欠き、偏見と矛盾にみちた判断をしていることが明瞭となったので、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違背、経験則の違反、審理不尽、理由不備等を理由として上告し、ここに最高裁判所のご判断を仰ぐこととなった次第である。

第二 各論〈省略〉

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